食べ過ぎたかな、と気になった耕作は胃薬を探した。まず、自分の机の中から探し始める。確か、去年の忘年会の翌日に買った胃薬があったはずだが、どこを探しても出てこなかった。自分の机の中から探し出すことを諦めた耕作は次に事務所に備え付けの薬箱を開けた。
胃薬だけが見当たらなかった。課長が時々飲んでいるのを見たことがあった。二日酔いの度に課長が全部飲み切ってしまったのだろう。
ベルトを緩めて椅子に座っていると電話が鳴った。
電話の要件は月曜の朝イチに商品を届けてほしいという内容だった。月曜なら配達の業者が来る。あわてる内容ではなかった。しかし、耕作は朝イチという言葉が引っ掛かり、ともかく商品だけは揃えておこうと倉庫に向かった。
倉庫は会社の三階にある。
倉庫に入った耕作は倉庫の人間がそうするようにラジオを付けた。ラジオからはよく耳にするメロディーが流れてきた。しかし、耕作には誰が歌っている曲なのか、どんな歌詞なのか知らなかった。
商品の品番の書かれたカードを出してリフトに繋がっているパソコンの読取り機に差し込む。それだけで商品は耕作の待つ大きな机の上に運ばれてくるのだった。
そこまでは耕作にでも簡単に操作することができた。しかし、運ばれてきた商品は大きくて重く、とても耕作一人で手に負える商品ではなかった。
無理をする必要はなかった。朝一番に倉庫担当の人に言えばそれだけで済むことであった。しかし、二人の後輩の顔を思い出すと無性に腹が立ってきた。アイツ等さえいれば何なく一階の配送場まで持って行ける商品であった。
耕作はムキになっていた。誰の力も借りず一人だけで商品を台車に乗せて運ぶことにした。
机の上から台車に積み直すまでが重労働であり、耕作は額に汗を浮かべてその作業に没頭した。
配送場に商品を下ろした時には三時半を回っていた。結婚前から丁寧に着ていたお気に入りのJUNのカッターシャツは汗でべたべたになっていた。どこで付けたのか黒い油が袖口に付いていた。洗っても落ちそうにはなかった。些細な事なのかもしれないが、そんな事実さえも耕作の二人に対する怒りの原因となるのだった。
事務所に戻り一息付いた耕作の額には別の汗が浮かび始めていた。ヌルッとする汗である。
昼に食べたトンカツが悪かったのか、食べ過ぎが原因なのか猛烈な吐き気が耕作を襲ってきた。
耕作は急いでトイレに駆け込んだ。男子便所には三つのブースがある。一番手前のブースをノックした。ノックしてから今日は会社にいるのは耕作一人であることに気付き苦笑いをしそうになったが、今はそれどころではなかった。
便器を前に、いつ吐いてもいいように屈み込み吐く準備をした。胸がムカムカとして脇の下に冷や汗が流れるのを感じる。
胃の中で消化途中の食べ物が一気に耕作の口から吹き出された。耕作の口の形そのままに食べた物が便器に吐き出される。苦しさのあまり耕作の瞳には涙が滲んでいた。
考えてみれば余りにも惨めな状態だった。 飛び散った跳ね返りが耕作のズボンに点々と小さなシミのようにへばり付いていた。
体中の力が全て無くなったような倦怠感が耕作を襲った。遠ざかる意識の中で、電話が鳴っている音が耳に届いてきた。誰も出る者のいない電話はひたすら鳴り続いていた。
便器の中に浮かぶトンカツの破片を見ながら耕作は、若い奴なんて大嫌いだと思っていた。
腹の中に入っていた物を全て吐き出すと、気持ち悪さが嘘のように消えていた。トイレの洗面台で口をすすぎ、耕作はポケットに入っていたハンカチで口を拭きながら事務所に戻った。相変わらず、事務所の中には誰もいない。時計は四時を回っていた。
無性に美智子や子ども達の顔が見たくなってきた。若い連中にとって自分はオジンで薄汚い存在かもしれないが、家族の者には大切な存在であるはずである。
五時まで半時間程時間があるが、耕作は会社を後にすることにした。どうせ五時まで事務所にいても電話なんて掛かってこないだろうと思い込むことにした。
カバンを手に持った時、電話のベルが鳴った。そう言えば、耕作がトイレで吐いている時にも電話が鳴り続けていた。その電話かも知れなかった。
取ろうか、取るまいか少しの間考えた。結局、耕作は受話器を取ることにした。四時過ぎに掛かってきた電話と同じ相手だとすれば今回も電話に出なければ何かの拍子に上司に四時には誰も会社にいませんでしたよ、と告げ口のように言われるかもしれない。それを恐れたのだ。
やっぱり耕作は気の小さな男であった。
「いつもお世話になっています。株式会社川根です」
業務用のマニュアル通りに電話を取った。「どーしたの。さっきも電話したのに。誰もおらんかったよ」
尻上がりのアクセントで話をする電話の相手は、やっぱり先程と同じ人だったのだ。
「済みません、倉庫に行ってたもので。それよりも失礼ですけれど…」
咄嗟に嘘を付き、相手の名前を聞いていないことを思い出した。
「わし、横山」
課長が最近開拓した得意先の名を男は言った。やっぱり電話に出たのは正解だった。
「ご用件は?」
横山と名乗る男は現場から携帯電話で会社に電話をしてきたのだった。そして、直ぐに商品の不足分を届けてくれ、現場には若い者がいるからと、半ば命令するように横柄な言い方で耕作に言った。
またもや三階の倉庫に行き、耕作は横山が言った品番のカードをパソコンの読取り機に差し込んだ。出てきた商品はやけに小さくて持ち運びも楽そうなものだった。
商品を車に積み込んだ耕作は警備会社に電話を入れ、会社を閉めることを告げた。
現場まで車で配達して、そのまま会社の車で家に戻ることにした。現場は会社と耕作の家のちょうど中間点くらいの所にあった。
薄暗くなり始めた町並みに、酔っ払いを誘い込むネオンが点灯し始める時間だった。滅多に車を運転しない耕作は薄暮の中で慎重にハンドルを操った。
何度も道端に車を止め、事務所から持ち出した地図を見ては現場に向けて車を進めた。 耕作の会社は建築資材を卸す会社である。だから得意先も建築関係、内装関係の会社が多い。そして、配達は現場に直送することが多かった。
耕作がハンドルを握り、向かっている目的地は郊外に建設中のマンションだった。
現場の雰囲気や決め事に不慣れな耕作は現場に着いたもののどうしていいか戸惑っていた。電話をしてきた横山は「若い者がいるから」と言っていたが、どこにもそんな人影は見当たらなかった。それどころかとっぷりと日が暮れ、真っ暗になった現場では人の気配すらなかった。
車の中で耕作は途方に暮れていた。
『カツン』
車のボンネットに何か小さな物が当たる音がした。
『カツン』
もう一度音がした。間違いなく何かがボンネットに当たっている。
車から降りた耕作は、暗闇の中で辺りを伺った。
「おい、ここだよ」
声がした方を見ると、かすかに小さなあかりが見えた。小さなあかりは声の主が火の付いたタバコを持っているのだろう、蛍のような心細いあかりだった。
「随分遅いじゃないか。待ってたんだから早くここまで持って来いよ」
怒鳴るように耕作に言った。横柄と言えばこれ程横柄な言い方はなかった。
「どこへ運べばいいですか」
声がした方向に向かって耕作も怒鳴った。「ここだって言ってるだろ。お前の来るのが遅いから俺はここで待っているんだ。グズグズしないでここまで来い」
相当カリカリしているのか耕作の怒鳴り声を上回るような喧嘩腰の声で返事が返ってきた。しかし、どうやってそこまで行けばいいのかは言わなかった。
耕作は躊躇していた。地面はぬかるんでおり、暗闇の中でそんな地面を歩くのは勇気がいることだった。
『ガツッ』
先程よりも大きな音がボンネットでした。声の主は小石よりも大きな何かを暗闇の中で耕作に向けて投げ付けたのだった。
いかに得意先と言ってもやっていい事と悪い事がある。人に向けて物を投げるとは常識では考えられないことだった。
「早くしろ」
耕作は生まれてから他人にこんなにも高圧的に物を言われたことがなかった。
荷物を持った耕作は真っ暗な階段を上っていた。相手が課長の得意先の人間でなければ耕作は「ふざけるな」と言ってそのまま帰っただろう。しかし、宮使えの辛さとはこういうことを言うのだろう。耕作は黙って相手の言うように階段を上っているのだった。
階段を上りきると、いくつか並んだドアの一つがわずかに開いており、そこから明かりが漏れていた。
荷物を抱えたまま耕作はそのドアを大きく開いた。それにしても、現場というものは殺風景で雑然とした所である。耕作が目にした光景は、まさにガラクタを散らかし放題散らかした部屋だった。
「そこに置け」
部屋の奥から声が聞こえてきた。またしても横柄な言い方だった。
「サインをお願いします」
商品を受け取ったという証拠に耕作はサインを要求した。
「お前が勝手に書いておけ」
すーっと全身の血の気が引いていくのがわかった。怒りは頂点に達していた。
「いえ、お客様にサインをしていただかないと…」
言い終わらないうちに部屋の奥からブロック位の大きさの木端が飛んできた。部屋の壁にぶつかった木端は耕作の足元にころがってきた。
その瞬間、気の弱い耕作は完全に恐怖のどん底にたたき込まれていた。先程の怒りはどこを探しても出てこない。今はまだ見ぬ人物があまりにも恐ろしく、耕作はその場を逃げて帰りたくなっていた。
「誰のせいで俺がこんな真っ暗な現場に残っていると思ってるんだ」
怒鳴りながら近付いてくる声を聞き、耕作の膝はガクガクと震えていた。
部屋の奥には電気が付いており、影だけが不気味に折れ曲がって動いて来るのだった。「ごちゃごちゃ言わずにとっとと帰れ」
不足した商品をわざわざこんな時間に運んで来た人間に対して何て事を言うのだろう。 しかし、その時の耕作の頭の中にはそんな事さえ考える余裕はなかった。
出て来た人物は逆光の中でもわかるくらい若い人間だった。そう言えば、横山という人物は「若い者がいる」と言っていたことを思い出した。
中学を出て直ぐに働いているのか、或いは高校を出てから働いているのか、どちらにしても二十歳にもなっていない若者だった。
相手がどんな風体の人物か分かると耕作の心の中に余裕が出てきた。
「君の所の社長に言われて持って来たんだ。サインくらい頼めないかな」
耕作は諭すように若者に言った。
「うるさい。お前ん所のミスで商品が足りなかったんだ。ごちゃごちゃ言うとボコボコに張っ倒すぞ」
そう言うと、若者は耕作に近付いてきた。耕作は相手の勢いに思わず後ず去った。その時、部屋の中にシンナーの匂いが充満していることに気がついた。
シンナーの匂いは部屋の中に入って来た時からかすかに感じてはいたが、建築現場の事だからボンドとか接着剤の匂いだろうと勝手に納得していた。
ところが、若者が近付くにつれてシンナーの匂いは強烈に耕作の鼻を突くのだった。

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